法廷が映し出す成年後見の光と影:高齢社会における財産管理の倫理を問う
導入:法廷に問われた「信頼」の重み
静謐な法廷で、高齢社会のデリケートな側面が浮き彫りになる裁判を傍聴しました。争点となったのは、認知症で判断能力が低下した方の財産管理を巡る、成年後見制度の信頼性です。被後見人の親族が、選任された成年後見人に対し、財産の使途不明金があるとして損害賠償を求めた民事訴訟です。原告は深い悲しみと不信感を滲ませ、被告である後見人は憔悴しきった表情で証言台に立っていました。
この裁判は、単なる金銭トラブルに留まらず、高齢化が進む現代社会において、個人の尊厳と財産をいかに守るか、そしてその制度を運用する側の倫理と責任がどこまで問われるのかという、重い問いを投げかけています。
本論:法廷の証言から見えてくる社会の亀裂
傍聴した裁判では、被後見人の預金口座から引き出された多額の現金が、何に使われたのか明確でない、という点が問題の中心でした。原告側は、後見人が被後見人の生活に不必要な支出を行った、あるいは着服したのではないかと主張しました。一方、被告である後見人は、被後見人の要望に応じて生活費や趣味の費用として使ったものであり、不正はないと反論します。しかし、詳細な領収書や記録が不十分であったことは否めず、その弁明は苦しいものでした。
成年後見制度の意義と限界
成年後見制度は、認知症、知的障害、精神障害などにより判断能力が不十分な方々を法律的に保護し、支援するための重要な制度です。彼らの財産を守り、生活を支える役割を担う後見人は、極めて重い責任を負っています。しかし、その運用には常に「信頼」という、目に見えないが強固な基盤が求められます。
かつての日本では、「家」という単位が強固で、家族や親族が高齢者の財産管理や生活の面倒を見るのが一般的でした。しかし、核家族化、少子高齢化、そして人間関係の希薄化が進む現代において、身寄りがない、あるいは家族がいても様々な事情で財産管理が困難な高齢者が増え、専門職の成年後見人が選任されるケースが増加しています。
現代社会が抱える「信頼」の危機
この裁判事例は、そうした現代社会の構造変化がもたらす課題を象徴しています。専門職が後見人として高齢者の財産を管理する際、その透明性と説明責任が何よりも重要となりますが、今回のように具体的な使途が不明確な場合、親族にとっては「財産が適切に管理されていないのではないか」という不信感が募るのは当然の心理と言えるでしょう。
法廷でのやり取りからは、被後見人の親族が「後見人には専門家として完璧な管理を期待していたのに」という落胆と憤りを感じている様子が伝わってきました。一方の後見人は、「本人の意向を尊重し、善意で行った行為が、結果的に不正と疑われる形になってしまった」という戸惑いを抱えているようでした。
ここには、現代社会における「信頼」の築き方と、その維持の難しさが潜んでいます。制度が用意されても、それを運用する人間の倫理観と、監督する側の体制が十分に機能しなければ、信頼は容易に崩れてしまう。特に、判断能力が低下した本人が自分の意思を明確に伝えられない状況では、後見人の裁量に委ねられる部分が大きく、その責任は計り知れません。家庭裁判所の監督があるとはいえ、個々の支出の細部までを常に把握することは困難であり、性善説に依拠する部分も少なくないのが現状です。
この事例は、単に個々の後見人の資質の問題に還元できるものではなく、高齢化が進む社会全体で、いかにして高齢者の財産と尊厳を守り、同時に後見人制度に対する社会の信頼を維持していくかという、より大きな課題を突きつけているのです。
結論:制度と倫理の狭間で問われる未来
今回の裁判傍聴を通じて、成年後見制度が現代社会において不可欠なセーフティネットである一方で、その運用には極めて高い倫理観と透明性、そして厳格な監督体制が求められることを痛感しました。被後見人の「声なき声」を代弁し、その尊厳ある生活を守るという後見人の使命の重さは、私たちの想像をはるかに超えるものです。
この問題は、私たち一人ひとりが将来、自分自身や大切な家族の財産管理についてどのように考え、どのような準備をしていくべきかという問いでもあります。法的な制度に頼るだけでなく、家族間での信頼関係の構築、エンディングノートの活用、専門家との事前の相談など、多角的な視点から「終活」を考えることの重要性が改めて示されたと言えるでしょう。
法廷が映し出したのは、制度の隙間からこぼれ落ちてしまう可能性のある個人の尊厳であり、現代社会における「信頼」という基盤の脆弱さでもありました。この裁判は、私たちに、高齢社会を生きる上で必要な「倫理」とは何か、そして社会全体でいかに「信頼」を醸成していくべきか、深く考えるきっかけを与えてくれるものでした。